どうも、ほしのみです。
「恋愛感情がよく分からない」「自分は恋愛にピンとこないタイプかも」と感じている人でも、BL作品はとても楽しく読める・観られるのは何故だろうと思ったことはありませんか?
アロマンティックアセクシャルである私が考えるその理由は主に3つあります。
ひとつずつ、詳しくまとめてみます。
【同じマイノリティとしての共感】
「異性恋愛」が当たり前かのような社会で、恋人がいない、好きな人がいない、そこに積極的ではない、という人はきっと不思議に映るんだと思います。
なのでそのような話題になったとき、「恋人はいない」「興味はない」と語ることに私は少々葛藤があります。
BL作品の、マイノリティ当事者としての生きづらさや抱える葛藤をしっかり描き、かつ、そこでは終わらせないストーリーがあるものには共感、安心感を抱きます。
実際に言われて傷ついた言葉、しかしその言葉を否定してくれる周りの人たち。
こういうことあったよな、という共感と同時に、こう思ってくれる人もいるんだろうな、という嬉しさも抱けるストーリーにはとても惹かれます。
なら恋こと「君となら恋をしてみても」という作品のなかで、
ゲイである海堂天は、同性が好きであることを親友に打ち明けますが「冗談キツイって」と笑われてしまった、という過去があります。
それから彼はずっと自分がゲイであることを自分自身で茶化して話すようになってしまいました。でないとやっていけないから。
それが当たり前になってしまい、転校先で出会った同級生の山菅龍司に男性が好きであることを笑いながら軽く打ち明けます。
すると彼は「もう俺の前で無理に笑わなくていいっすよ。茶化すたび傷ついてんのは自分でしょ」と真面目な顔で言います。
この言葉に、天はどれだけ驚き、感心し、嬉しいと感じたか、想像に難くないです。
ここで、あの時の天ごと龍司が救ったんだろうなと私は思いました。
ぜひ、一度マンガ原作、ドラマともに観てほしいです。
漫画原作は「漫画Park」で連載中。コミックスは現在6巻まで発売中です!
ドラマは「Amazon Prime Vireo」「FOD」「U-NEXT」など様々なサブスクで配信中なので是非。
【ジェンダーロールに縛られない関係性】
異性愛作品では、やはり多くが
・男性はリードする、相手を守りたい
・女性は受け身、感情的、相手に守ってほしい
といった役割が、明示的でなくても前提としてあったりします。
そういう役割に苦しめられている人は今現実に多くいると思います。
私自身もそう思うことが多いです。
BLは性別による役割ではなく、そのキャラクターの個性で関係性が進むためそこのしんどさから解放されるという意味で見やすいと私は思っています。
もちろん、BL作品でも明らかに異性愛規範に当てはめたような描き方をされているものもありますので、作品による、とは思いますが。
「性別を超えた」なんてキャッチコピーを付けてしまうBL沢山ありますからね…
【こうあるべきという規範を突き付けられることが少ない】
異性恋愛の作品を見ていると、男女が一緒にいれば惹かれあい、
付き合い、すれ違い、想いが深まり、結婚を見据える。
こういうルートが多いと思います。
このような物語を絶え間なく見せられていると、「これが普通」「あたりまえ」「当然」という認識が擦りこまれていきます。
そして「そうでない」人は未熟であり、売れ残り、などと描かれることも少なくはありません。
そのため私自身も十代、二十代の頃はそう思っていましたし、異性の恋人がいること、結婚すること、子どもを持つこと、すべて「そうなりたい」と思って焦っていた時期もありました。
BL作品ではそのような関係の行き着く先や正解のルートがあらかじめ定められていないことが多く、キャラクターの感情や選択を、成功・失敗の尺度ではなく一つの在り方として受け取ることができます。
もちろん「正解ルート」の代表である結婚が同性同士では出来ないと今尚排除されているからであるため、無批判に肯定はできないことだとはわかっています。
しかし私には決まったルートのない描き方に救われる部分もあったため、問題を意識し差別に抗い同性婚を支持した上でそのようなストーリーを好きでいたいと思っています。
恋愛作品ではありますが、私自身の見方が「恋愛に主軸を置いていない」から楽しめるのだと思います。
色々な角度から楽しむ。
人によってさまざまな見方があるのが面白いところだなぁと、自分でこのブログを書きながら思いました。
では、また次回の記事で。
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